潮見寺について
潮見寺の歴史と先祖の想い
詳細は不明ですが、かくれ念仏時代の講間が糸口となり、西方開教が行われます。そして明治17年(1884年)潮見寺前身の西方説教所が開設され、明治28年(1895年)本堂建立、明治30年(1897年)寺号公称されています。当時の門徒個数265戸・門徒数1,600名と、兵庫から強い決意を持って鹿児島開教に来鹿した三木正暁・正圓僧との強い想いが合さった結果、今の潮見寺ができあがりました。(西城山潮見寺寺号公称百周年慶讃法要記念誌、平成6年11月参照)
ですから、潮見寺は“南無阿弥陀仏の念仏を歓んだ”私たちの先祖たちが、僧侶と門徒という立場で、精一杯の力を合わせて守ってきた場所です。様々な法要や門徒さんたちの法事を勤修するだけでなく、聞法の道場として「ほとけさまのお話」を聞かせていただく場所・集まり、“門信徒皆さまのわが家”を作ってくださったのです。
潮見寺の沿革
「潮見寺の沿革「本願寺鹿児島開教百年史」
昭和六十二年九月
浄土真宗本願寺派
鹿児島教区教務所・鹿児島別院発行
原稿 前住職投稿より(一部改変)
<沿革の概要>
一、真宗の起源
親鸞聖人(一一七三~一二六二)によって浄土真宗の教義は始まり、後世には全国的に広まった。薩摩の地には一五〇〇年頃からこの教えが伝えられた。
二、一向宗の禁制(浄土真宗の信仰を禁止すること)
真宗の教えが広まるとまもなく、これを排斥しようとする気運が生じ、歴史にみる一向一揆がその例であるが、薩摩では、一五九七年島津義弘が禁令の発布を出した。
「一向宗之事先祖以来御禁制之条、彼宗体ニ成候者ハ曲事タルベキ事」のこの一枚の紙で浄土真宗の禁制が行われた。
三、かくれ念仏
一向宗の禁制のため、信者の中には、獄に投じられる者、打ち首にあう者がある中に、地下にもぐり、山中にはいって信仰する者もあった。
湯田・西方・尻無も例外ではない。一八四〇年(天保十一年)八月十五日字新道(ケヅイケ)の中尾五次右衛門氏は、薩摩藩の役人にふみ込まれ切腹され、六十三歳をもって往生、今ケヅイケ墓地にねむる。
四、信教の自由開教令
日本の政治は維新をむかえた。一八七六年(明治九年)九月五日に信教の自由開教令が出され、浄土真宗の薩摩開教が始められ同年九月二十六日には小田仏乗僧をはじめ十数名の名僧の来鹿開教が着手されている。
一八七八年(明治十一年)には太田道潅の十四代目にあたる太田祐円僧が阿久根を中心に、尻無、西方にも布教開教を行っている。一方西方には、この頃、戦国大名今川義元の家臣三木兵庫頭三木正元の十三代目三木正暁僧が来西、太田祐円僧の西方の教線をゆずりうけて開教している。
五、三木正暁僧の業績
三木正暁僧は、現在の兵庫県朝来郡生野町奥銀山一二九八年に生まれ、浄願寺十三代任職であったが、古文書によると、学徳高く、但馬に一時、中教院設置の際赫々(かっかく)たる名声でしかも雄弁布教家、但馬を圧倒、鹿児島開教に雄飛三回耀市後を正受(十四代)に絶職、とあり。
鹿児島県下の開教は祁答院が中心で、入来の浄国寺を設立し、一八八四年(明治十七年)七月三十一日に西方説教所を向山公園下に開設して長男正円を入所させている。
この頃、正円僧は声明の師(お経の先生)として、鹿児島別院とを往来、そのため、下薗嘉吉氏一族が同所、下薗氏後の潮見寺建立に尽力される。
六、潮見寺の建立
出水地方を開教した井上尽済僧は西照寺を建立、信者の数は日増しに増大し本堂のせまきを感じられるようになった。
この時、一八九五年(明治二十八年)にその本堂の払い下げ(当時二百九十五円)をうけ、大工八名、人夫三十名で三日間で解体し、米ノ津港より西方漁船三十艘の船の総動員で西方港に陸揚げし、島津家西方別館跡の現在地に本堂七十二坪の寺を建立、庫裡三十二坪を建設。
七、寺号公称
一八九七年(明治三十年)に浄土真宗本願寺派西城山潮見寺として認可される。
この時の功労者
門徒総代 浜田小助 下薗嘉吉 執印甚兵衝 竹田次郎兵衛 僧侶(法類)太田祐円(阿久根) 天野蓮城(大小路) 三木正暁
門徒数 千六十名
門徒戸数 二百六十五戸
八、歴代住職
初代 三木正円 明治三十一年七月二十五日~大正二年五月二十七日
二代 三木正倫 大正十五年十二月十七日~昭和四十八年四月二十三日
三代 三木正英 昭和四十九年十一月十二日~平成二十年六月二十四日
四代 三木徹生 平成二十年六月二十四日~現在
潮見寺喚鐘
潮見寺の初代喚鐘は西方の大火の時、金鎚でたたきその突座が穴をあき、浦小路の夜学舎に寄贈されて、二代目喚鐘として山崎キチ、松下キサ、鮫島タカノ、増田クラの四名の篤信者からの寄進で行事鐘として使われていたが、これも大東亜戦争時にお内陣の仏具とともに有事に拠出。その後木版をたたいていたが、昭和二十四年十月に執印醸造工場が湯田から西方に移転した、その記念として執印秀人氏が寄贈されたものが現在のものである
かくれ念仏
かくれ念仏は西方・湯田でも例外でなく行われていたようだ。その頃は一軒の真宗のお寺もなく、そこで布教・説教される方もない。お念仏を唱えていることが薩摩にわかればきびしい拷問や切腹を言い渡される時でもひそかにお念仏は講間(こま)でも相続されてきた。
何故お念仏を命がけで相続せねばならないか、それは後生の問題はご文章にお示しされているように一大事だからである。
参考までに桃園先生のさつまの「かくれ念仏」を引用しておきましょう。
拷 問
これほど用心して隠密裏に事を運んでもどこから漏れるのか度々発覚しています。一度真宗信者との疑いを持たれると直ちに役所につれて行かれ、きびしい取り調べが行われます。その際筆舌にも尽くせぬ残酷な拷問が行われます。その一例として石抱きというのがありますが、これは幅三〇センチ、長さ一メートル、厚さ一〇センチ余、重さにして四キロの平たい石を、三角の割木を並べた上に容疑者を正座させ、膝の間に三角の割木をはさみ、膝の上にさっきの石を一枚二枚三枚とつみかさね、前後にゆらゆらとゆりうごかします。五枚になって石の高さがあごの下に及ぶほどになると、足の骨は砕け、悪くすると絶命することもあります。あれほど人権を無視した江戸時代でも、この石抱きの拷問はキリシタンか主殺しの重罪人でなければ行わなわなかったといわれますが、薩摩藩では真宗はキリシタンと同様に取締まられたのでありますから真宗信者という疑いがあると容赦なく石抱きの拷問が行われました。私がある所できいたこの石抱きの拷問をうけた人の子孫の話では、立会っていた医者が(この人も実は真宗の信者だったのですが)見兼ねて、もう死んでしまった、と今でいうと死亡診断書を書きましたので、遺骸は家族のものに下げ渡されることになり、家に帰ってそれから十幾年生きていたということですが、腰から下の骨は完全に砕けてしまっていて死ぬまでねたままだったということです。また水に浸し、塩をつけた縄で手をしばり両手を柱にくくりつけておきますと、かわくに従って水で膨張していた縄がちぢんで手にくいこみ、縄につけてあった塩が傷口に泌みこんで、その痛さはとても耐えられるものではなかったといいます。女性の場合は更に非人道的で腰の高さに縄を張り、水に浸し塩をつけた上をまたがせて歩かせる、じっとしていると下役人がつきたおし無理やり歩かせます。このような拷問に耐えかねて真宗信者であることを白状しますと、いちばん軽い場合胸替えといって転宗を強制されます。主として禅宗に転入するのですが、役人の前で、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、といわゆる三帰依文をとなえて転宗を誓って許されますが、戸籍には前一向宗と朱書きされ一生前科者扱いされ、また訴人といって以前信者であった立場を利用して前同行であった真宗信者を摘発するスパイの役をさせられます。いちばん重い者は無論死罪、次が流罪、更に所移しといって住み慣れた故郷をはなれて荒れ地の辺鄙な所に移される。それから武士は農民に、農民は下人にと一段身分を落とされる、過料、若干といろいろな罰があります。
鹿大桃園恵真先生著
さつまの「かくれ念仏」を引用
さつまの先人は三百年もの長い間、堪忍び南無阿弥陀仏のお念仏も相続して下さいました。このことにつきましては、只々頭が下がるのみ。
明治の世に入り、念仏の解禁になり上述のお念仏よろこぶお互いの先祖が力を合わせて潮見寺創設に傾注されたのである。
本堂建立についての古文書
(前文見つからず。明治二十七年九月頃と思われる)
開会セラザリシヤノ異論ヲ起シ信徒ノ意ヲ違ハシメ、為メニ同月六日カラ八日迄三昼夜討議セシニ論議漸ク整卜反對者ヨリ発起人ニ尋問シテ曰ク、右本堂建築ニ就テハ凡ソ何程位ヲ以テ建築落成シ得ルカ又其費ハ如何ナル目的ヲ以テ支出スベキカト問ハレシニ、発起人答テ曰ク、門徒ノ寄附金ヲ募リテ支出ス、又其費金凡ソ六〇〇円ノ見込ミナリ、反對者曰ク、若シ然ラバ寄附金ヲ以テ不足ノ際ハ如何スベキカ、有志者曰ク、寄附金ヲ以テ支持ニ不足ヲ生ジタル時ノ門徒中へ十一銭モ附加セン、然ラバ其旨約定セバ如何卜云ウ、就テハ出水へ本堂購求ニ御出張ナサレシ人々ノ御見込ハ如何ヤト問ヒシニ竹田次郎兵衛答テ曰ク、吾々此節有志家ノ委任ヲ受ケ出水へ出張シ本堂就覧スルニ家ノ木材ハ古年ノ杉一切ニシテ重充分堅固ナル家卜見受ケ目下右本堂建築スルニ就テハ金三〇〇〇円以上四〇〇〇円内外ヲ要ス故ニ、買受ケ、又右解家ニ就テハ大工八名人夫三〇名ニシテ三日間ニ解却シ又米ノ津迄ノ運送費ハ三〇円以上及ビ米ノ津ヨリ西方迄ノ運送ハ當西方町漁船三〇艘位ニテ運送スト見込ム。下薗嘉吉曰ク、只今竹田氏ノ述ベラルル通り故ニ是非右ハ買求ニ賛成スト。又大工橋口孝之助曰ク、先ヨリ竹田、下薗二氏ノ述ベラルル通り故ニ買求ニ賛成ス、最モ右本堂材木ハ古年ノ杉一切ナレバ一〇〇年、二〇〇年位ハ差支ナキ家卜見受リト言ワレシニ、信徒中ノ意見直ニ一変シ、然ラバ建築スル事ニ決定セリ。同年九月二十六日発起有志会開合シ建築掛及び合計、副建築掛ヲ選定セリ
一、建築掛 竹田次郎兵衛 下薗嘉吉
一、会計 執印甚兵解 松下興右衛門
一、副建築掛 橋口才之助
同二十七日ヨリ門徒中ハ勿論其外、上湯田、西方他門徒有志方へ寄附相談ヲナセシニ早暁寄附書出金額六四七円以上ニ昇レリ。
然ルニ又此ニ珍シキ一説アリ、佐多源之進、中薗四郎の二名ニテ右出水西照寺旧本堂ハ代金一五〇円位ニテ買求メ残余金ハ右買受へ差越ノ人々窮取セシ者卜唱へ、態卜出水差越シ二宮敬助氏ノ之ニ到り委細尋問セラレシニ果シテ二九五円ナリシヲ以テ大ニ赤面セリ
一、此ニ又湯田下方ニ非分村ヲ唱へル者、佐多源之進他八〇位、壮節再ビ建築二反封ヲナセリ
一、當地ハ武田敬助、濱田太吉二氏ノ地所買求メ、寺敷地卜定メリ
一、明治二十八年一月二十九日ヨリ本堂解家ニ行キ人名左(下)ノ如シ
建築掛 竹田次郎兵衝 下薗嘉吉
会計 執印甚兵衛
大工 橋口吉之助 帖佐新之助 中尾八次
左官 西谷喜之助
同三〇日ヨリ解家着手ノ手配ヲナセリ
同二月一日出立セシ人名左ノ如シ
副建築掛 橋口才之助
大工 森田宗次郎 貴島金右衛門 山田矢七郎
人夫 湯田、西方ヨリ三〇名
同二日ヨリ解家着手、三日ヲ経テ四日午后二時解終
同五日大工及ビ人夫一同帰郷セシメタリ、同七日家屋材木一切米ノ津へ出揃へ、同八日ニハ竹田次郎兵衛・執印甚兵衛二名ハ帰宅セリ、同一〇日迄ニハ材木凡テ運送シ一一日下薗嘉吉氏モ帰郷セリ
同九日ヨリ石口寄セ一〇日、一一日ノ両日ハ地割、一二日一三日ハ地突、一五日一九日二〇日ハ家建、二一日ニハ「むね」揚ゲノ祝儀ヲナセリ
二十八年三月四日ニハ旧本堂解家事件ニ付門徒総会ヲ開会セシニ旧本堂ヲ以テ和場スル事ニ決シタリ
和場請負人 山元藤一郎
工事一切三〇円落札 山元藤一郎
左官一切七円落札 西谷喜之助
右建築ニ就テハ幸ニ信徒一同其門徒有志諸君ノ御尽力ヲ以テ日遠カラズシテ落成シタリ
西方説教所宅地代償 三九円四七銭三厘
明治二七年旧六月一三日
清取人 下薗嘉吉
杉下平次郎殿 鮫島孫太郎 右の書
西照寺旧本堂一棟 二九五円
須弥壇 右口迄一切
三〇円 明治二七年九月三日
支払 一一七円五〇銭 明治二七年一一月一日
一四七円五〇銭 明治二八年一月一日
潮見寺建物
本堂 七一坪二合半 瓦葦
庫裏 二四坪 〃
釜屋 六坪 〃
便所二カ所 四坪 〃
潮見寺敷地 高城村西方字町下通一一四八番地
竹田敬之助 五畝六歩
浜田太吉 四畝二六歩−
鮫島孫太郎 一畝七歩 五口 一反四畝一歩
松下嘉吉 一畝七歩 地価二二円九五銭
地主村持 一畝半
御宝殿他 京都石田●店 一四一円一七銭六厘
歴代門徒総代氏名 (順不同)
濱田 小助 橋口 半左衛門 中屋敷 治誠
下薗 嘉吉 松下 直太郎 川島 仲助
執印 甚兵衝 濱田 政吉 貴島 貞豊
竹田 次郎兵衝 小川 孝蔵 湯前 力弥
橋口 半左術門 由井薗 英吉 松下 勝志
立野 新右衛門 竹田 榮喜 鮫島 正人
橋口 才之助 内野 友吉 池田 寅次郎
松下 七之助 松下 嘉次 寺地 家定
平国(執印)友熊 井籠 益太郎 江口 福徳
橋口 国衝 立野 松右衛門 中村 太吉
田畑 新左衝門 内野 忠蔵
歴代の総代さん、潮見寺の建立と護持発展へのご尽力に対して「只々ありがとうございました」と深謝いたします。